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において、大都市側は、府県の二重行政や二重監督の弊害を説き、「大都市に府県はいらない」と繰り返し主張したのであった。 また、このときの地方自治法改正において、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体であり、広域、統一、連絡調整、補完という4つの事務を担当することが明らかにされ(法2条4項)、都道府県の位置づけが明確化された。 (c)「地方」制をめぐる府県廃止論等の論争(1957年前後) 1957年、第4次地方制度調査会は、府県を廃止して全国7〜8ブロックの「地方」を置くことを答申した。この「地方」は、地方公共団体と国家的性格を併せ持つものとされ、その執行機関たる「地方長」は総理大臣任命の国家公務員とする構想であった。これに対して、府県側はもとより、公法学者等の有識者には反対論が強く、府県統合論を主張したため、結局実現にいたらなかった。 この論議では、経済成長を遂げるうえで府県の区域が狭小に過ぎることが府県廃止論の根拠とされ、府県が地方自治の防波堤となっていることが府県存続論(府県統合論)の主な根拠とされた。 (d)府県合併、道州制をめぐる論議(1962−70年) 高度経済成長期で地域開発の必要性が叫ばれたこの時期、「新産業都市」建設(1962年促進法制定)等の拠点開発等をめぐって広域行政の強化充実を求める声が強く、1965年、第10次地方制度調査会は「府県合併」の促進を答申した。また、1969年に関経連、1970年に日商と、経済団体からそれぞれ、公選の首長と議会を置く地方公共団体として「道州制」が提唱されるなど、府県行政の広域化をめぐって繰り返し議論がなされた。 (e)「地方の時代」と府県機能純化論の登場(1978−82年)高度経済成長と中央集権体制のひずみが明らかとなった1970年代後半から、「地方の時代」論とともに、市町村の自治を重視し府県をその支援機関として位置づける府県論や、「府県機能の純化」論が府県自身によって語られるようになった。広島県、愛媛県、静岡県や神奈川県、埼玉県は、こうした理念を背景として、実際に府県から市町村への権限移譲を実行していった。
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